歓喜院聖天堂
歓喜院聖天堂
歓喜院聖天堂
歓喜院聖天堂
歓喜院聖天堂
歓喜院聖天堂
平和の塔
貴惣門
貴惣門
斉藤別当実盛
上田城
上田城
真田幸村
上田城
真田幸村
天徳院
奥之院
高野山金剛峰寺
高野山金剛峰寺
壇上伽藍
壇上伽藍
東日本大震災物故者慰霊碑
壇上伽藍
壇上伽藍
室生寺・五重塔
長谷寺・真言宗・豊山派
長谷寺・舞台より
徳川義直
名古屋城
名古屋城
名古屋城
名古屋城
名古屋城・御殿
正一位舟附稲荷神社
正一位舟附稲荷神社
正一位舟附稲荷神社
正一位舟附稲荷神社
榛沢六郎成清公神社 供養塔・享保八年(1723年)建立
昭和50年5月18日770祭除幕式
榛沢六郎成清公供養塔
榛沢六郎成清公神社
平成24年2月6日・宮崎宮司、役員、総代、 深谷城跡 深谷城跡
深谷城跡
城わり
土塁
土塁
土塁
土塁
秋元氏陣屋跡
秋元氏陣屋跡
庁鼻和館跡
国済寺
黒門
国済寺記
三門
土塁
土塁
門
城わり
土塁
土塁
城跡
城跡
土塁
馬出
城わり
城跡
土塁
お堀
お堀
塙和保己一記念館
姉川の戦い
姉川の戦い
姉川
琵琶湖
浅井三姉妹
浅井三姉妹
初と万福丸
長浜城
長浜城
家の近くに正一位舟附稲荷神社があり4月1日がお祭りです、神社の由来について調べました
征夷大将軍・坂上田村麻呂(758〜811)の十丈ヶ渕大蛇退治の話。坂上田村麻呂は(延暦16年)征夷大将軍に任命される
桓武天皇の(延暦20年)命を受け、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出かけて、東北地方の蝦夷を征伐されての帰り
この近くをお通りになるという噂が伝わり、近郷近在の人達はこぞって十丈ヶ渕に棲む大蛇を退治して頂きたいとお願いしました。
大蛇とは、その頃身馴川の十丈ヶ渕(現美里町十条)という深渕に大蛇が棲んでいて人畜に大きな被害を与えていた。
住民達の力ではどうすることも出来ず、大蛇のなすがままだった。坂上田村麻呂は承諾して、直ちに朝廷へその旨を秦上し勅許を仰いだ
都からお許しの使が届き大蛇退治に取りかかる。坂上田村麻呂は、身馴川が広く流れが速く激流のため舟を作り押し渡った。
舟のついた所に稲荷神社を建て成功を祈願した。これが正一位舟附稲荷神社といわれ今ものこっている。現在は土地改良の為、
基の場所より東に移し村の近くに祭られております。
家の近くに鎌倉時代に活躍した武将、榛沢六郎成清公の記念碑があります。
榛沢六郎成清は、鎌倉時代の武将で、武蔵七党の丹党新里綱房の弟成房の頃榛沢に住み、榛沢氏を
名乗ったのが榛沢氏の始まりです。大字榛沢字川辺(かわなべ)に中世の館跡と思われる遺溝がある。一辺の長さが百メートルで
ほぼ正方形しており面積は約一万平方メートル、地形平坦であるが北が高く南が低い、北西部曲(かね)の手に
幅約5・6メートルの掘が二重に掘られ、長さ二十メートル位ある。最近まで南東部にも堀が残ていたことから、
もとは周囲が掘に囲まれていて、中世の掘の内形式の館と思われる。この場所を中心として北東に鬼門に当たる、
経蔵院、南西に裏鬼門に東光寺があり、東光寺は榛沢成清の開基創立である。経蔵院には資料がないが、附近に鎌倉時代の
板石塔婆があり、榛沢氏の開基によるものと思われる。平安末期この地へ来て地名を姓とした、榛沢氏であるから。
榛沢地内に館を定めたことは確かであろう。後に成清が現在の後榛沢の地に館を移したのは、水害の為であろうと思う。
成清は畠山重忠と乳兄弟で、鎌倉時代では乳兄弟は肉親の兄弟よりもつながりが深いといわれております。
はじめ重忠は、平氏に味方し、源頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後重忠は頼朝の先陣をつとめ、
成清も重忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥藤原氏との戦い、等おおいに活躍しました。また成清は神仏に対しての信仰が
深く、当時疫病に苦しむ人々を救うために、本榛沢に大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺を開いたと伝えられている。
元久二年(1205年)時の執権北条時政はしたがわない御家人を(畠山重忠)(榛沢成清)などを,二俣川において三万の軍勢で襲いました。
重忠の手勢はわずか134人、おおいに奮戦しましたが、力つき重忠、成清共に討ち死にしました。成清公の子孫は各地にのがれ現在に至る。
榛沢六郎成清公祭
家の近くの城は深谷市の深谷城見学です。
深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城である
室町時代中期の康正2年(1456)深谷上杉房憲が古河公方の侵攻に備えて
築城したと伝えられる、土塁や深い濠を巡らした城は面積20ヘクタール、
その形から木瓜城(ぼけ)とも呼ばれた。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めに
よって開城するまて゛憲清、憲賢、憲盛、氏憲と134年間にわたり、戦国時代の
北武蔵における、上杉方の支城であった。徳川家康の関東入国後は、徳川一族の
譜代家臣の居城であったが、寛永11年(1634)廃城となった。
現在は深谷上杉の祈願社であった富士浅間神社(知形神社)の社殿を
巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。
秋元氏陣屋跡・秋元氏は上総国(千葉県)の出身で天文10年(1541)景朝の時、
深谷城主憲賢、憲盛に仕え、深谷上杉三宿老の一人として活躍、また上野台の
領主として、ここに館を建てました。子の越中守長朝も、深谷最後の城主氏憲に
仕え、天文18ねん(1590)小田原役の際氏憲が小田原城に立て籠もた留守の
深谷城を、守備し豊臣方の前田利家、浅野長政に深谷城及び宿場を兵火から救う
ため城を明け渡しました。上野台の開拓にも力をつくしましたが、後に徳川家康に
仕え、幕末は館林6万石の領主でした。
天誉寺は秋元氏の建てた寺で景朝、長朝の墓があります。
庁鼻和館・関東管領上杉憲顕は13世紀新田氏をおさえるために、この地庁鼻和に
六男の上杉蔵人憲英(のりふさ)をつかわし館を築かせました、憲英はのち
奥州管領に任ぜられ、以後憲光・憲長と3代この地に居住しました。館は一辺
170mの正方形で外郭を含めると28ヘクタールあります、康応2年(1890)高僧
峻翁令山禅師(しゅんのうれいざんじ)を招いて、館内に国済寺を開きました。
本堂裏に当時の築山と土塁が残ています、天正18年(1590)に徳川家康んら寺領
30石の朱印状を下付されています、文化財に令山禅師と法灯国師の頂相、黒門
三門、上杉氏歴代の墓が指定されています。
史跡鉢形城跡
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。
指定面積は約24万m2です。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に
築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や
信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾影春が築城したと
伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の
四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を
誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして
重要な役割を担いました。また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名
が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、
前田利家、上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。
1カ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に
開城しました。開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・
日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
雉岡城跡
雉岡城跡は、別名八幡山城跡とも呼ばれ、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれたが、
地形が狭いので、山内上杉氏は上州平井城に移り、当城には家臣の夏目豊後守定基をおいて守備させた
永禄年間には北条氏邦によつて攻略され鉢形北条の属城となったが、天正十八年(1590)に豊臣方小田原
攻めの際、前田利家によって攻囲され落城した。その後天正十八年八月徳川氏の関東入国後、松平家清が
一万石の格式を受けて領主となり居城としたが、慶長六年(1601)三河国吉田城に転封されるや廃城となった。
姉川の戦い・浅井三姉妹・長浜城跡
姉川の戦いとは、1570年6月28日に滋賀県北部を流れ、琵琶湖に注ぐ姉川をはさんで対峙した
浅井・朝倉連合軍約1万8000と織田・徳川連合軍2万5000が激突した大合戦である、
激戦のすえ、織田・徳川軍が勝利した。
秀吉が建てた長浜城は、後に柴田勝家に譲られ、豊臣政権時期には石田三成が領主となる。
石田三成は佐和山に城を築き、長浜城は支城とした。
0800-800-1813
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